ジュンバ・ラヒリ「停電の夜に」

Jhumpa Lahiri (1999) "Interpreter of Maladies"

ありふれた日常の中にある違和感やすれ違いを提示して、2点間の距離が変化する場面をしっかりと描写した作品群。繋がっていたのが離れたり、閉じていたのが開いたり。
ほとんどの作品では、何かが足りずに満たされていない人間が主人公。無条件にハッピーな話はひとつもありません。人生は楽しいことばかりじゃないけれど、ひとつのことがきっかけで、これまでとは違う何かが起きるらしい。読者は、普通の人の人生のターニングポイントに立ち会うことになります。
新しい環境にどうしても馴染めない、あるいは、家族と遠く離れて暮らしている・・・そんな経験が共感の度合いを高めることと思います。

ロンドン生まれアメリカ育ちのインド人女性作家・ジュンバ・ラヒリ。本短編集で、ニューヨーカー年間新人賞、O・ヘンリー賞、PEN/ヘミングウェイ賞、ピューリツァー賞などを受賞。


停電の夜に (新潮文庫)

停電の夜に (新潮文庫)

停電の夜に 
そのときは、いずれ収まると思っていた。二度と子供が産めなくなったわけでもないし、ショーバとなら何とかなるはずだった。だが、彼女は料理も片付けもしなくなり、すっかり違う女になってしまった。近ごろは顔をあわせなくてすむように、なるべくすれ違いになるように心がけていた。シュクマールが朝起きたら、シェーバはもう仕事に出かけていていない。そういえば今夜から五日間、八時からの一時間、停電になるそうだ。仕方なく一緒の夕食をとりながら、ショーバがいった。「ねえ、何か言いっこしましょ、暗い中で。いままで黙ってたことを」


幸せな時期を過ごした二人の間には、死産を境として深い溝が横たわってしまいました。その事には決して触れないようにしていますが、溝は大きくなるばかり。放っておく、忘れるまで待つ、そういった解決法を選んだのですが、どう考えても、それが報われたようには思えない。むしろ終わりが近づいている感じがする。
そこに突然、閉じていたことを開く、絶好の機会が与えられました。決定的な事態になるという予感がありながらも、頷かずにはいられない。何を話そう?あれか?これか?それともやっぱり・・・。
そうした緊張感がサスペンスと意外な展開を生み、そして描写スピードの変化が効果的に決まります。また彼らの間にはもうひとつ「妻の収入で生活している夫」という、これも口にはしない構図があるのですが、その影響がいつかどこかで。


ピルザダさんが食事に来たころ
ピルザダさんの家族からの消息がわからなくなって、もう半年を過ぎていた。テレビに映っていたのは、ダッカを走る戦車隊であり倒壊したビルだった。どう考えても、ピルザダさんの家族は死んでいるのではないか。何か慰めになることをしたかった。しかし、この戦争のことを学校では誰も話題にしなかった。図書館でパキスタンについての本を読んでいたら、先生が現れて「これはレポートに関係ないでしょ?」といって取り上げられた。


えー、アメリカの学校の先生は、もっと子供の意欲を尊重すると思っていたのですが・・・。
この話は、遠く離れた国にいる家族を思う気持ちがテーマです。政情不安にある途上国と先進国との距離となると、日本人やアメリカ人には決して分からないことであり、先進国に生まれたことの幸運を感じずはいられません。いざという時に頼りになるのは同じ境遇の人間でしかありませんが、他人を思う純粋で優しい心を持つならば、祈りが通じないこともない。
そして、祖国の激動と同時進行するのが、アメリカの平和な日常です。どこの国でも外交より内政が重視されるのは仕方がないとはいえ、子供としては不思議な感覚を抱いたことでしょう。学校が全てを教えてくれるはずなのに、家の中とは大きな違いがあることに。身近なところに学校では教えないことに詳しい人がいると感じ、そしてそれがとても悲しいことであることを理解します。子供の控えめで優しくて、プライバシーを守ることも知っていて、自己主張しない姿がとてもいい。
静かで優しさにあふれた、好感度の高い作品です。

 ピルザダさんに、と言いながらグラスをかざしたわたしは、このとき初めて、はるかに遠い人を思うということを知った。


病気の通訳
「ねえ、聞かせてよ。それらしいことを」マニキュアをやめてダス夫人がいった。ひょっとしてダス夫妻はうまくいっていないのではないか、ちょうど自分たちのように。奥さんが夫にも子供にも見せない興味をいきなり自分に向けてきたことで、カパーシーは軽い酔いのようなものを感じた。まったく悪い気はしなかったのである。車を走らせながらバックミラーを気にかけて、奥さんに目を走らせるようになった。顔だけでなく、茶系の肌にも、服や短いスカートにも。


この作品で、O・ヘンリー賞受賞。国際的に活躍出来るようにと数カ国語を学んだかつての理想は遠くへ過ぎ去り、インド国内で観光客相手に運転手をする主人公カパーシー。今回の客はアメリカ生まれのインド人一家。
彼らは親としての責任感すらないのに、アメリカで生まれたというだけの理由で、カパーシーを召使い同然に扱うチカラを有しています。身分の違いすら感じたりして、大きな要素となるのは嫉妬心。立場の違いは永遠のようでしたが、ダス夫人の気まぐれがその境目にヒビを入れました。カパーシーは諦めてはいなかった!千載一遇のチャンスをうまくとらえて、しっかりと握りしめたのですが・・・。
嫉妬に加えて屈辱を感じたとすれば、ダス夫人に対する気持ちは残酷なものに至ったのでしょうが、カパーシーはそのだいぶ手前、対等に会話をするという段階ですっかり舞い上がってしまい、(ちょっと笑える、そして虚しい)妄想を繰り広げるのでした。


本物の門番
階段掃除のブーリー・マーは、折れそうで悲しげな声で苦労を数え上げ、昔の暮らしを誇るのだ。「ああ、いい暮らしだったねえ。あんたらにはわからんだろうな!」独演会のうちどれが本当のことなのか、誰にもわからない。そのうち門番のようなものになり、アパートの住民から重宝がられるようになった。ある日、ダラルさんが流しを買ってきたあと、奥さんたちのあいだには不穏な空気が流れだした。「アパートのためを思ってるのは、みんな同じなんだからね」。アパートは昼夜ずっと職人が来るようになり、ブーリー・マーは仕事が出来なくなり、屋上で寝るようになったのである。


保たれていた秩序が、ひとりの善意を境として崩れます。善意が出しゃばりに写ってしまったのか、出る杭が打たれてしまいました。それぞれが自分の力を誇示するために、行動すること自体が目的となる。狂騒の中、奥さんたちは本来進むべき道を見失ってしましましたが、ブーリー・マーは誰よりも早く「今のままで十分だよ」という所で落ち着いた生活に入ります。
けれども、一歩先に進んでしまった奥さんたちにとって、ブーリー・マーは時代遅れの遺物でしかありません。奥さんたちもいつか彼女の正しさに気づくはずですが、謝ろうとしても遅すぎて、そのとき彼女はもうどこにもいない。


セン夫人の家
エリオットは今ではセン夫人の家にいのが楽しみになっていた。母が迎えに来る六時二〇分までに、セン夫人は野菜をすぱすぱ切ったり、おぼつかない運転の練習をしたり、エリオットと魚を買いに行ったりした。母といっしょのときは何でもないことが、セン夫人といっしょだと、どうも様子が違うような気がした。また、セン夫人が「うちではね」と教えてくれる、その「うち」がインドのことだということも分かってきた。


主人の仕事についてインドからアメリカに来たけれど、(近所づきあいが深くて共同体意識が強い)インドと異なり、個人主義の国であるアメリカでの暮らしに、全く慣れることが出来ません。小さな楽しみを家庭内外で見つけようとしますが、いずれもうまくいきません。アメリカで暮らすためには他人の痛みなんて気にせずに、自己主張を強くしなければ難しい。預かっている子供に対してオープンに接するうち、ついつい弱さも見せてしまいます。ご主人が彼女をケア出来たらいいのでしょうが・・・。
アメリカ」との文化の違いに苦労する姿を切なく描いた本作ですが、ここでの「アメリカ」は「日本」と置き換えても通じるように思いました。途上国から来た外国人は日本人をこんな風に見ているんだろうな、と思ったり。気をつけなくっちゃ。

「ここの人、みんな、自分だけ世界にいる」


ビビ・ハルダーの治療
ビビ・ハルダーは二十九年の大半をベッドで過ごしたが、その病気については誰もがただ首をひねるばかりだった。いとこのハルダー夫妻の仕事を手伝いながら、物置に坐っているのが日課だった。毎日哀れっぽく語るビビに、私たちは顔を洗ってやり、食べ物を持っていって、外に誘ったりした。ビビは期待ばかりが狂おしく結婚式の予定を考えて、そのうちにそれを思うだけで卒倒したりした。ビビはほかの女と同じように男が欲しいのだ。また倒れたビビをわたしたちは不安に思ったが、ハルダー夫妻は考えることが違った。侮蔑の色を隠そうともせず、ビビを片付けて病院に送った。すると医者は自棄になって言った。この人は結婚すれば治るよ―――。


この短編集ではアメリカ文化に馴染めないインド人が繰り返し書かれているのですが、「ではインドではどうなんですか?」という当然の質問に対する回答が、この作品にはあります。近所の病気の女性に対して、周囲がよってたかってサポートする。愚痴っぽく、汚らしくっても、人々は彼女に対して、いつまでも親切に接するのです(いとこが冷たい理由は分かりませんが)。
仏教・ヒンドゥー系の途上国における横の意識は本当に強い。噂話が広まりやすかったり、いつでも手伝いを求める大人になるといった点はありますが、困ったときのサポート体制は先進国の比じゃありません。日本もかつてはこんな社会だったはずですが・・・。
おとぎ話のようなストーリーで、「本物の門番」の姉妹編のような印象。


三度目で最後の大陸
私はもう慣れたものだった。ミセス・クロフトと過ごした六週間。コーンフレークと牛乳、図書館での新しい仕事、静かな道を歩いて帰ると「戸締りした?月にアメリカの旗が立ったのよ!どう思うね?」「はい、すごいです!」その後は二人とも黙っている・・・。私には一世紀を生きたミセス・クロフトに対する畏敬があった。何しろ毎日が奇跡のようなものなのだ。慣れていないのは妻のマーラだ。私は結婚というものを拒んでもいなかったが、乗り気でもなかった。すぐアメリカに来たものだから、顔全体を思い出すこともできない。知らない女である。


夫婦といっても元は他人。お見合いで知り合い、しかも、新婚早々に別大陸に別れて過ごした二人です。新大陸に慣れた自分と慣れない妻という関係は、夫婦というより保護者になってしまいそう。でも、憎んでいるわけじゃないのだから、いずれは収まるところに収まるもの。きっかけさえあれば大丈夫でしょう。この場合は、ミセス・クロフト、103歳。当事者にとっては大問題でも、彼女が生きた時間と比べたら、物の数じゃありません。「歴史」に直に接したときの感覚は、自らの諸問題を小さくし、視野をぐっと広げてくれます。
他の作品で見られる描写の細やかさはありませんが、かえって私には好感触。思考と時のジャンプが見事に決まり、優れた余韻を残す作品です。


そのほかに「セクシー」と「神の恵みの家」も収録されています。