マリオ・バルガス=リョサ「フリアとシナリオライター」

Mario Vargas Llosa (1977) "La tia Julia y el escribidor" (Aunt Julia and the Scriptwriter, 1982)

1950年代の南米、ペルー。僕は18歳の大学生で法律を学んでいるが、小説家になりたくて、ラジオ局でのアルバイトの合間に短編小説を書いている。その頃ほぼ時を同じくして、ボリビアから2人の人間がやってきた。離婚して帰国した13歳年上のフリア叔母さん。一緒に映画に出かけるうちに、一番後ろの席でキスを交わすようになる。スキャンダル好きな親族たちの目を避けながら、将来のことは決して語らず、関係を深めていく・・・。もう一人は、シナリオライターのペドロ・カマーチョだ。人生全てを創作に捧げる「本物の作家」であり、彼が書くラジオドラマはペルー全土に熱狂的に迎えられた。一日のうち十時間を執筆にあてて十本のドラマを書き分け、七時間はスタジオにこもって演出家や声優もこなしていたが、無理がたたって次第に・・・。


フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ)

フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ)


「僕は書く。僕は書く、と僕は書く。頭の中で、僕には、自分が僕は書く、と書くところが見え、自分が書くのを見ている僕を見ることもできる(以下延々と続くが略)」を巻頭に据えたメタな小説。
ペドロ・カマーチョのキャラクターと彼が書きわけるシナリオのハイテンション、「僕」とフリア叔母さんの恋愛描写の細やかさ(かわいらしさ)、そして感動的なエピローグまで、充実の作品。


「僕」が一人称で語る現実の生活と、ペドロ・カマーチョによるシナリオが交互に続く構成である。ラブ・ストーリーを紡ぐ現実生活は連続しているが、シナリオはそれぞれが独立した短編となっている。


まず、破天荒なシナリオの面白さに惹かれた。先の展開が全く読めないドラマ(サスペンスありロマンスあり)で、見事なエンターテイメント(ソープオペラ、お昼の連続ドラマ)である。
全ての作品はペドロ・カマーチョの極端な人生観、哲学、コンプレックスが色濃く反映されており、とても面白い。行動の意味について当人に聞いてみたい短編が、極めて贅沢に挿入されている(「バルガス=リョサの人生観」はどのくらい混ざっているのだろう?)。また、笑いの要素も強烈だ。中盤を迎える頃には、南米のとある国(?)や男盛りの年齢(?)が出てくるだけで大ウケすること必至である。そして『「移ろいやすい大衆」と「人材を使い捨てする経営者」の間に挟まれた大衆作家』という一歩引いた構図が後々へと効いてくる。


ラブストーリーはかなりシンプルだが、冷静に「私はあなたに何年で捨てられるの?」と言いながらも、目の前にある若さに飛び込んでしまうフリア叔母さんは魅力ある人物で、多くの女性の共感を呼ぶと思われる。


そしてユニークさを際立たせる、メタ小説な部分。「僕」はラジオドラマを聞くことはせず、フリア叔母さんとの恋愛の合間に、作家としてのペドロ・カマーチョを尊敬の目をもって観察する。そして「僕」とフリア叔母さんとの行為は、小説の作者マリオ・バルガス=リョサの体験談に基づいているため、『「自分の価値観を反映させる天才作家」を観察する未来の作家』という構図があり、この両者はそれぞれが作者マリオ・バルガス=リョサを投影した人物である。『自分を書く作家を見る作家を描く作家は見る作家でもある』とも言え、こうした遊びは延々と続けられそうである。また、ラジオにはリスナーがいるように、小説には読者がいる。小説内小説自体は決して珍しくないが、作者の自伝的要素があるために現実とのリンクが出来あがっており、好む好まざるに関わらず、この小説を読んだ人はそれだけでマリオ・バルガス=リョサが仕組んだ枠組みの中に入れられてしまうのだ。


エピローグは、予想通りであり予想外でもあった。若さを完璧にコントロールした筆により、感動が煽られている。

果たしてペドロ・カマーチョのラジオドラマは何を生んだのだろうか?僕とフリア叔母さんは幸せを掴むことが出来たのだろうか?強烈な個性と情熱はどのような結末を迎えたのだろうか?


・ "Tune in Tomorrow"の題でハリウッドで映画化されている。主演はBarbara Hershey, Keanu Reeves, Peter Falkだが日本未公開だと思われる。
・ マリオ・バルガス=リョサに直接この本のことを聞いた音声。BBC World Book Club