ヒネル・サレーム「父さんの銃」

Hiner Saleem (2004) "My Father's Rifle"

クルド人の映画監督(カンヌやヴェネツィア国際映画祭で高く評価されている)である作者が、サダム・フセイン政権下のイラクで過ごした少年〜青年期のことを振り返る、自伝的な小説。
クルド人は「独自国家を持たない世界最大の民族」と言われている。フセイン下では弾圧の最大の犠牲者となった。迫害され、恐怖政治におびえながらも、それでもクルド人は民族誇りを決して失わない。そうした彼らの生きざまが胸を打つ峻烈な作品で、すでに20以上の言語に翻訳されている。

どうしても暗い話題が多くなるのだが、家族や仲間との思い出や、主人公の前を向いた力強さが救いである。とても読みやすい文体で書かれていて、一気読み。


父さんの銃

父さんの銃


私の知り合いの知り合いの・・・は、某非民主国家で反政府活動をしていた過去がある。住んでいた町において平和裏の抗議活動をしていたが、衆人環視で話し合いのさなかにリーダー格だった父親が突然背後から射殺され、町中パニックの中、逃亡。国境付近の地域で反政府活動を行い、家族のすべてと連絡を絶って、消息不明のまま数十年、現在はヨーロッパの某国で亡命生活をしている・・・ことを、ほんの3日ほど前に知った。彼はメールで「嫌な経験をとてもたくさんして、今、生きている」と短く語っていた。


非民主国家の、しかも非差別民族の生活を理解することは、日本人には両方の意味で不可能である。それだけにレジスタンスの最前線(!)にいて、難民キャンプ暮らし(!)までして、さらにフセイン政権下(!)で生きた人間が、そうした恐るべき体験を自らの言葉で綴ったこの小説は貴重である。とにかく、凄いのだ。(真実と創作の境目は不明なのだが)よく今まで生きてきたなぁと、まず、そのことに拍手を送りたくなる。
これは外国人ジャーナリストによるドキュメンタリーとは異なるため、偽善的にもとれる同情心や、好奇心と功名心に燃える暗い目などはあり得ない。内部の人間によって、行動の源流が語られている。それでいて作者は本業の仕事柄、読者が欲しているものを理解しており、期待に背かない。


小説の冒頭、読者はいきなりレジスタンスの内部に放り込まれるため、そこでの常識に面食らうだろう。実際に私も、生死よりも誇りが大切であるという、彼らの生き方に大いに戸惑った。戦争が骨の髄まで染み込んだ人間の暮らし、戦闘の現場、最前線に暮らす人間たちの営みである。

悲惨な描写も数多く、敗勢に陥ったレジスタンスの姿は感傷的である。しかし、この少年期は徹底的に子供の視点から描かれているため、戦いを繰り返す大人たちについての主観的な考えも、客観的な政情分析もなされていない。読んでいるうちは「なんだか日記のようだな・・・」と淡白さを感じていたのだが、今は、この頃を『歴史に残る、苦しくも誇り高き時期』としてとらえ、昇華されたレベルで胸に抱き続けたいという、作者なりの考えからではないかと思っている。


印象的だったのは、父親が家族会議を開く場面である。議題は、イラクの我が家に帰り、苦しい生活になるかもしれないが、友人たちに囲まれて暮らすか?それとも、アメリカに移住して平和に暮らすか?
ここでは「選択の自由」について考えさせられた。彼らは確かに自由意思で選択したのだが、情報なき自由は時として不幸を呼ぶ。そもそも、自由のように見えて、実は自由ではなかったのだろう。上を仰ぎ見ると圧倒的な権力を持つ口髭姿があり、そこが刑務所であったことに気づく・・・。誰しも何らかのコントロール下に生きている。首相や大統領ですら法律の下に生きている。しかし、そうではない国もあった。いや、今もある。


本作で描かれるクルド人は、自分の命や外国での平和よりも、民族の誇りを守り、故郷で暮らすことを大切にしている。しかし、家族を守るために、相手への服従を装っている人もいる。金銭的な名誉のために、自らそっちの道を選んだ人もいる。戦闘を続ける人間が未だにいる以上、主人公の選択もある意味では裏切りだろう。しかし、ここに正解などないのだと思う。あるのは未来を必死で考えた人間の、哀しくも滑稽で、愚かにも美しい姿である。

日本人は「命と平和の大切さ」を尊重するように教育されている。しかし、一方では、長く続く平和により危険への免疫が極端に低下し、安全な場所から批判するというスタンスが定着してしまったように思う。実物どころか細かな情報にもいちいち怯える姿に自信や誇りは感じられず、きっとクルド人に笑われてしまうのだろう。彼らから学ぶべきだと思うのだが、「でもね、とにかく日本は平和なんだよ」と言い返すべきなのだろうか。

民族の誇りというものについて考えざるを得ない。今やバナナ民族(外は黄で中は白)とも呼ばれるそうだが、私がよく読む1940〜50年代の小説に登場する日本人は、もっと、なんというか・・・外国や占領軍からの蔑視・差別の中で、彼らは燃えるような民族意識を抱くようになったと思う。誇りとは、そうした中で生まれるのだろう。日本人が惹かれる言葉に「世界の舞台で戦う」というのがあるが、その中身は今と昔とではまるで違う。日本人を嫌悪しているとされる国の、敬意のない環境下で、大出世を果たした日本人に聞いてみたい。「あなたにとって、日本人の誇りとは何ですか?」と。その答えにクルド人もうなずくと思う。

「おれたちは、クルド人は、何者にもなれやしない。呪われた民族さ、そういう運命なんだ。(略)おれたちは隷属を拒み、抵抗し、そうしてこれからも、何者でもないままここにいるのさ・・・」