ラッタウット・ラープチャルーンサップ「観光」

Rattawut Lapcharoensap (2004) "Sightseeing"

タイ人作者による短編集(+中編1)。社会的不公平にあふれるタイの生活を切り出してみせ、高く評価されたという25〜26歳時のデビュー作。ガーディアン、LAタイムズ、ワシントン・ポストなどの書評欄で取り上げられ、全米図書協会は作者ラープチャルーンサップを「注目すべき若手作家」に選出したという。
この短編集で繰り返し描かれるのは様々な形の「比較」と、異文化や異環境への適応である。全体を通して感じたのは「どうにもならない感」だが、しかし、簡単に諦める奴はいない。


観光 (ハヤカワepiブック・プラネット)

観光 (ハヤカワepiブック・プラネット)


英語で出版されたため、読者層に欧米人を強く意識しているのは間違いない。途上国に対して上辺では慎ましく振舞う彼ら(日本人も含まれている)がタイに感じるホンネのところを、タイ人自身が語っている(「(観光客がタイに求めているのは)セックスと象だよ」あるいは「タイの国は能なしとガイジン、犯罪者と観光客の天国よ」etc)。このあたりのユーモアと諦観と冷笑が英米の書評家に高く評価された・・・とあとがきには書いてある。

この自虐は、タイが抱える問題を欧米人に知って欲しい、関心を持って欲しいという、作者の願いから来たものだと思う(タイ人からすれば「ガイジンに媚びている」と思われるかもしれないけど)。いわゆる掴みとして外国人ウケを狙ったことは、作品の並び順からも伺える。

観光客のアメリカ人と英語が堪能なタイ人が登場する話(「ガイジン」)から、短編集の幕は開く。上記のようなセリフを語らせて興味を抱かせた後、舞台はタイの奥、観光客が行かない場所、英語が通じない場所へと進む(例外はある)。読者を飽きさせないように(あるいは力量を示すために)様々な小説技法を駆使しながら、観光地タイのメインストリートではなく、未成熟な発展途上国の暗部・恥部を明らかにする。
書き方は異なれど、描写されるものは同じである。異なるものへの対処の仕方であり、タイには様々な「差」を元にした問題があることを示している。主に貧富の差に起因した不公平感が差別や暴力を生み、国民を支配階級と被支配階級に分けてしまっているようだ。これはタイに限定されるものではないため、全発展途上国の人間が共感を、全先進国の人間が興味を抱くだろう。本作には「下から目線の普遍性」を見い出せる。ちっぽけな人間の無力さと、その中で表現されやすい人間の本質、さらにそこからしか発生しえない野性味も。

主人公たちはいずれも権力を持たず、自分の自由にならない環境下に生活している。政治や社会が抱える構造的な問題が根っこにあるが、それを変える力も能力もない。普通(どちらかというと貧困層)の市民が暴れたところでどうしようもない。1つの問題をやり過ごしても、不幸は次々襲いかかってくる。そのためある段階で、彼らは溜め込んできた不満や欲求を他の物(者)にぶつけたり、その場から逃げることで解消しようとする。今よりマシに生きるための道を、各主人公が能動的に選ぶ。

その観点で捉えると各話のテーマは等しいと思われ、したがって読後感は全話ほぼ似通っていた(これが評価を下げた理由)。作者は少年少女の未来に光を与えることにこだわったようでもある。それは自らが生まれ育った環境に、現在もいる者たちへのエールなのだろう(甘さと言えなくもないが)。


書きっぷりにまで東南アジアの雑踏を予想すると裏切られる。作者は欧米的なスタイルを身につけており、構成は非常に洗練されていて後半の作品には安心感さえあった。ゴツゴツした荒っぽさや荒削りな感じはなく、文体もとても読みやすい。その反面、輻輳的な面白さはなく、執筆中という長編を待ちたいところ。この処女作を次作で易々と突破出来れば、素晴らしい作家になるのではないか。個々の作品はバラエティに飛んでおり、お披露目の気合いが伺えた。

個人的ベストは、「プリシラ」と「こんなところで死にたくない」。「徴兵の日」もいい。


徴兵の日

裕福な家の息子であるぼくは、親友である貧しい家の子・ウィチュと一緒にくじ引きの列に並んでいる。ウィチュと彼の母親は必死の表情をしている。ぼくの親はその場にすらいない。途中、ぼくは役人に呼ばれて列から外される。ぼくは親から聞いて、自分が徴兵されないことを知っていた。しかし、ウィチュには伝えていなかった。言えなかった。今朝、ウィチュの母親がぼくたち2人に願掛けしてくれたときも、何も言えなかった。列から外れながら、ぼくは下を向くことしか出来ない。


役人に賄賂を渡すことで確実に徴兵逃れが出来る「くじ引き」って何。今もそうなのかどうかは、後書きにも説明がないので分からないけど。
安岡章太郎の初期作品とよく似ている。主人公は、たぶん十代後半の多感な時期。金持ち特権に慣れた人たちは、列を外れた後も恥を感じずに笑っている。主人公が恥ずかしく思ったのは、彼には「心」がまだ残っていたからだ。しかし、なんだかんだ言いながら、その特権を行使してしまい、どうしようもない自己嫌悪。この場合は表向き「親がやったから」と言えるので、自分に選択権がある場合が問題になりそう。少年から大人になり、似たような選択を迫られたとき、どうするか・・・。

ちなみにタイの隣国ミャンマーでは、民族間紛争が激しくなると、拉致という形で徴兵されることがあるらしい。夜間に青年が一人で歩いていると、拉致される。タイとの国境近くの紛争地域に運ばれ、物資の運搬など後方支援の仕事をさせられる。むろんそこに金持ちはいない。発展途上国では袖の下はすんなり通るし、それを使わなければ公共サービスにおいても不公平な扱いを受ける。欧米もやっぱりチップの額で扱いが変わるし、日本はいいよね。


観光
表題作。登場するのはタイ人親子と自然のみの、美文調に徹したinterlude。「見えなくなる目」は資本の前にひれ伏す姿、「死に掛けている」のは古き良きタイ、か。
この短編集には小説内で成り上がる人物はなく、しいて言えば、皆、成り下がっていく。悪くなるだけじゃないかという将来への不安が、タイの貧困層を覆っているようだ。大人たちは「昔からこうだった、仕方がない」と諦められるが、むろん少年少女の成長に適した場所ではない。タイも日本と同様の問題を抱えているようだ。


プリシラ

カンボジア難民のプリシラの歯には一本一本純金の冠がかぶさっていた。危険になってきたときに両親が現金を金に換え、プリシラの歯に詰めたそうだ。「すごいな、金持ちだな!」と言うと、プリシラはうれしそうに笑った。ぼくらがプリシラのあばら家に遊びにいったり、プールで自転車遊びをしているうちに、カンボジア難民はどんどん増えてきた。ぼくの母は難民は好ましくないといった。ぼくの父は「あいつらこそが本物の鼠だよ」と言った。「そこらへんにトイレを垂らしてるんじゃないか」と言った。ぼくは「そんなことはないよ。彼らはタイ人に迷惑をかけないように生活しているし、トイレもきれいにつかっているよ!」とはもちろん言えない。


どこからも歓迎されない難民の不幸。しかし、外から見れば彼らは図々しいだけの存在で、イジメのターゲットとなりえるものだ。両者の間には絶対的な壁があるのだが、子供だけはその間をすんなり行き来出来る・・・というようなことを、淡い恋心を混じえて切なく描いた佳作。
イジメとは、不満のはけ口を求めた行動である。「一生懸命やっているのに生活が苦しくなってきた」と思う保守層が、原因を変化それ自体にする。あれもこれも難民が悪い、ネズミが悪い。タイトルは「ネズミ」でもいいような。
また、この作品は最後の発想が素晴らしいと思った。自分が暮らす社会の卑小さ、世界の巨大さ。


こんなところで死にたくない

「私」は半身不随となり、息子ジャックに呼ばれてタイに来た。ジャックは日本企業で働いており、タイ人の妻と2人の息子たちと暮らしている。孫の名前は難しく、正確に発音することが出来ない。孫たちは自分を怖がっているし、妻は自分を馬鹿にしているに違いない。息子が「そんなことはないよ」と言うたびに、私はアメリカに残してきた友人たちのことを思う。


人生とは思うようにいかないものだ。なぜ、こんなところで、どうして、こんなことに・・・。老人が語る、栄枯盛衰。
新しい家族。異なる民族。三つの世代。これらの距離感を、ウィットを混ぜた細やかな表現で繋ぐことに成功している。ノスタルジーと威厳とのバランスがとてもいい。24、5歳でこういった作品を書けるというのは、作者の資質以外の何物でもないと思う。


闘鶏師

最終話は、権力と一体化した暴力が描かれる。本作唯一の女主人公が登場し、唯一の中編でもある。横暴な権力者が支配する街で、権力者に睨まれて正義がグチャグチャに潰されてしまう様子を、思春期の娘の視点から描く。
アクションを思わせる冒頭から闘鶏シーンへと繋がり、凄まじくテンションが高い。鳥を食べるところなど迫力たっぷりだ。私が好んで読んできた昭和初期の小説(武田泰淳など)と似た香りがした・・・が、以降はちょっと肩透かし。普通の時間軸で書いた方が良かったのではないか。また、人間の繋がりや絆が強調された後だけに、ラストの形は不自然な気が・・・。


その他、「ガイジン」、「カフェ・ラブリーで」。