ヤスミナ・カドラ「テロル」

Yasmina Khadra (2005) "L'attentat" (The Attack)
「なぜ妻は自爆したのか?イスラムの哀しい夫婦の愛を描いた野心的傑作」(帯より)

イスラエルのテルアビブ。アラブ人のアミーンは民族的な差別を乗り越えて、エリート外科医として成り上がり、妻シヘムとともに上流階級の暮らしを謳歌していた。ある日、白昼のレストランで自爆テロが発生する。犠牲者十数名、病院に搬送されてくる負傷者たち。テロは初めてでもなく手際よく処置し、帰宅して寝入った深夜に警察から呼び出された。見てほしい死体がある・・・あれは自爆テロであり、妻シヘムが首謀者だった・・・犯人は妻であったのだ。妻のことは知り尽くしていたはずなのに。互いに秘密などなく、彼女は何不自由ない暮らしに、十分満足していたはずなのに。もちろん例の原理主義者などではない。何が彼女を駆り立てたのだ?なぜ、自分は彼女のサインに気づかなかったのだ?わけがわからないまま絶望と悔恨の坂を転げ落ち、アミーンは暴走を開始する。「ただひたすら、真実が明かされるかどうかがすべての命運をわける」とでもいうように―――。


テロル (ハヤカワepiブック・プラネット)

テロル (ハヤカワepiブック・プラネット)


平穏な夫婦生活を突然襲った悲劇。妻が自爆テロを行った・・・。
これ以上ないほど(日本人には理解出来ないほど)慎重に築き上げた黄金の城郭は、もっとも信頼していた箇所から瞬時に崩壊した。社会的な抹殺は、アミーンを名士から「普通のアラブ人」にした。すると暴力の臭いが感じられるようになり、これまで無視してきた民族への帰属意識が否応なしに芽吹く。馴染めないところであり、そこへ帰るためには幾万のきっかけが必要なところである。妻を愛して平穏だった頃へ心を置き去りにしたまま、事態は否応なしに進んでいく。今や妻への愛はテロ実行犯への愛であり、妻を理解することはテロを理解することと同義になる・・・そうした絶望的な相克の解決を図り、自らのアイデンティティーを見定めることが、この驚きの物語の主題だろう。


この小説では、主人公のバックグラウンドを過小評価してはならない。むしろ強調しすぎるほど強調してもいい。テルアビブでアラブ人として生きることの困難さは初めの数十ページに確かに書かれているが、周辺に散りばめられた美文調と修飾された文体によって、その重要性が埋没しているように感じた。作者は「こんな常識、知ってるでしょ」と言わんばかりにさらっと書いており、実際、読者層をそのあたりに設定しているのかもしれない。イスラエルパレスチナ問題についての知識量によって視点が大きく変わってしまう小説だと思う。私には正直難しかった。頭ではなく、ココロが届いていないので。

主人公のアミーンはそれだけで1冊の本になるような辛苦を経験し、現在の地位に到達した。・・・強靭な自制心により怒りを押さえつけ、昇りつめた地位がそうした人々や行為と接する機会を遠ざけてきた。しかしそれは民族の誇りを忙しさの中に閉じ込めて、考えの及ばないところに逃げ込んでいただけだったのかもしれない。成功の数と比例して敵が増え、すると失うことへの恐怖が増し、名誉と尊厳が生きた証となり、それを守ることが重要になる。上流階級の暮らしを続けるうちに、自分は特別なアラブ人であると感じ、妻も全く同調してくれていることを確信している・・・。これが主人公のバックグラウンド。この認識を持たなければ、読者は主人公の性格を見誤ってしまうのではないか。

それは作者の書き方のせいでもある。本作は、感動を大げさに表現することを良しとせず、内なる変化を劇的に描写することはない。作者は大胆に、主人公における他者の発言の咀嚼と内面的成長を省略している。そのため、私は主人公の真意を読み取るのに苦労した。作品のどこかにある「相変わらず何もわかろうとしないんだな」という言葉は、アミーンではなく、読者に向けてのものだと思ったものだ。

主人公があっさり通過したからといって、あっさり読み飛ばしていいわけではない。この作品において、読者は主人公の感想を受けて反応するのではなく、主体的にならなければならないのだが、このことに序盤で気づくのは不可能だろう。したがって序盤だけでも2度読むことで様々な補完がなされるのだが、果たしてこれは作者の狙いなのだろうか、と。


世界的問題となっている紛争地域で自分探しをするところなどは、先刻読んだ「カイト・ランナー(君のためなら千回でも)」にも通じる。そして、徹底的に下降と堕落を続けるところは、大江健三郎の「個人的な体験」である。それと比べると本作の下降から底練り、底練りから上昇へと転じる2点は、ストーリーにおける極めて重要なポイントでありながら、そのきっかけはいずれも弱く感じられた。中盤までの無謀な行動の理由には、必然性という点で難があると思った。


また、私がこうした小説に勝手に期待するのは、その土地の人間ならではの行動であり意思である。しかし、ここでは自爆テロという異様なきっかけがあるにせよ、その後に起こる出来事のほとんどは普遍的だった。それは共感しやすさとイコールであり、日本人にも読みやすくなるという面があるが、私としてはグローバライゼーションを感じてしまい、面白みに欠けた。たとえばトラブルに際しての対処法は、安宿に泊まり、酒の力に頼り、車をあてどなく走らせ・・・というものだったのだ。ここに「イスラエルに住むアラブ人」を感じることは出来ない。
そもそも、本作にはイスラム教及びユダヤ教のいい面がほとんど書かれていない。やはりこれはヨーロッパのキリスト教圏の理解を求める小説なのだろうか(藤本優子氏の訳者後書きには、イスラムにもユダヤにも「あえて肩入れしていない」とあるが・・・)。


しかし、後半において、作者はやってくれた。世界からの問いに果敢にも答えてみせる。

Q.なぜ人はテロリストになるのか?
Q.なぜ終わりのない報復が続くのか?

この場面を読むだけでも、この本には大きな価値がある。こうしたことを感動とともに知り、考えることが出来ることを光栄に思う。

恐るべき舞台において延々と語られる、場面の壮絶さ凄惨さ。メモリーとして残すためにも全てを書いておきたいのだが、物語の重要箇所であるため白字にする。
(ここから)


「自尊心を踏みつけにされ」「尊厳をたもてるだけの力の裏づけがなく」「自分の無力を意識したときから、人は真に憎むことを知る」。そして「とんでもない惨事が引き起こされる」
「恥辱よりもひどい災厄などあり得ない。これぞまさに比べるものなき不幸だよ。生きる意欲を奪ってしまう。それでもまだ自分の寿命がつきないと、一つ事しか考えられなくなってしまうんだ」「いかにすれば堂々と終焉を飾れるだろうか、と」
「我々の部隊に喜んで加わる者などいない」「彼らは戦争をあり得ないほどに嫌悪している」「あの子らだって、立派な地位につけるものならつきたいだろう」「だが問題は、その夢がはねつけられてしまうことだよ」「夢を拒絶されると、死が最後の救いとなる」「人間の狂気が行きつく先は二つしかない。おのれの無力を思い知るか、他人の脆さを認識するかだ。要は自分の狂気を正面から受け入れるか、それとも耐え忍ぶかだよ、先生」
そしてもうひとつ。「誰も自分の運命は選べないが、自分の最後は自分で決められる。それこそ、運命に悪態をつく民主的な方法なんだ」
(ここまで)
圧倒的である。紛争を知らない現代日本人には軽々しく意見を述べることなど許されない重みがある。この場面の緊張感が、その思いをより強固にする。


主要人物のナビードは「これは誰の身に起きてもおかしくないことなんだ」と言う。政府による攻撃、民族格差、少年兵・・・いや、やはりこれは、誰の身にも起こることではない。平和な国の国籍を持つことの貴重さを噛み締める一方で、地理的な理由で問題を間接的にしか感じ得ないこと、そのためどうしても真剣に議論されないことの残念さを思った。


読むときに知っておくと便利なキーワード。
・シャイフ、イマム = 宗教的指導者(高僧)だと思われる。
・シャバク = イスラエル諜報機関
・イスラミック・ジハード = 実在するレジスタンス。
シュケル = 通貨。

幸福になりたいからといって、あえて目をふさいでまわりを見ないようにしていいのか。自分自身に背を向け、おのれを否定するものに向きあうこともしないでいいのか。

彼の王国とは、彼の住む粗末な小屋だ。祝宴とは、気に入った人間たちとともにする食事のことだ。彼の栄光とは、自分が死んだのちに、ほんの少しでも思い出してもらうことだ。

”すべてを奪いとられることもあるだろう。大切にしているもの、一生で特に素晴らしいはずの歳月、人生の喜び、功績、全財産-―たとえそういうすべてを失おうと、あらたに世界を築くための夢だけは、誰もおまえから奪うことができないんだよ”。


<追記>
2009年12月26日、デルタ機爆破テロ未遂事件が発生した。逮捕された容疑者は、医者を父に持つ富裕層の青年・・・。
それ以外の詳しいことは知らないのだが、まさに「テロル」である。この小説が現代を見事に切り取っていることが改めて明らかとなった事件だと思う。
現実は未遂で終わったが、この容疑者の家族には小説と同様の辛い年の瀬が押し寄せるのだろう・・・。