フィリップ・クローデル「リンさんの小さな子」

Philippe Claudel (2005) "La petite fille de Monsieur Linh"

家族愛と友情の物語。穏やかで優しい気持ちになり、リンさんの「冒険」を応援したくなること請け合いです。

老人の名はリン。周囲はみな戦争で死んでしまい、彼の人生に残されたのは孫の赤ん坊だけ。「穏やかな朝」という意味の、サン・ディウという名前。リンさんは彼女のために、死者たちの国から立ち去った。生まれて6週間の幼子を抱いて、6週間の船旅をして、言葉の通じない見知らぬ異国に降り立った。・・・ある日、難民宿舎から出て公園のベンチに座っていると、太った男に話しかけられた。妻を亡くしてから生の喜びを失ってしまい、人と話をするのさえ久しぶりだと言う男。リンさんには彼が何を言っているのか、さっぱり分からない。ただ、悲しみが表れた声、言語を超えた何かが宿る声に、何となく懐かしさを覚え、次の日もまた同じ場所で会う。


リンさんの小さな子

リンさんの小さな子


この本には、いくつもの小さな奇跡が起こります。似た境遇にある者たちが偶然出会い、言葉が通じないにもかかわらず、親しい友になります。人と人との出会いはそれ自体が素晴らしいことであり、大切な人と出会うことは、度合いが高い奇跡です。これらの出会いを生んだのは、リンさんの小さな子の力に違いありません。


公園のベンチで偶然出会った男たち。彼らは互いの大切な人を亡くしており、思い出の中に生きています。過去の良き日を懐かしみ、ありったけの時間を共有し、故郷に、亡き妻に、失った時間に思いを馳せます。涙を流し、穏やかな笑みを浮かべ、そして、周囲にある唯一の未来である子供をあやし、彼らは友として認めあいます。当人たちは知ってか知らずか、彼らは互いを補間しあい、それでも足りないところは赤ちゃんが補い、完全な形になりました。


彼らは互いの言葉が理解できないのですが、読者だけには分かるようになっていて、これが様々なシーンで感動的な効果を与えています。
特に浜辺のシーンは見事です。互いに違うことを考えていながら、彼らのしぐさは相手に通用するのです。これは偶然の産物のように見えますが、必然的なことなのでしょう。言語的なすれ違いを当たり前のこととして、それを大らかな気持ちで優しく包み込んだ2人の人柄の勝利です。


ここでは言語に特化していますが、文化でも文明でも、違いを認め合った上で触れ合うことが、交流の大事な点。ここには、コミュニケーションの本来の姿があるように思いました。

言葉が通じなくても、大人と子供が仲良くなることは出来ます。子供同士はもっと簡単。一番難しいのは、大人と大人。たとえ言葉が通じたとしても、大人同士はやっぱり難しい。たぶん、余計なことを知りすぎてしまったのでしょう。知らない方がいいこともあり、分からない方がいいこともある。作中には「言葉がわからない。だから傷つけられる心配がなく、聞きたくないことを言われることも、無理やり過去から引きずり出されることもない」といった文(一部改)もありました。もっとピュアに、もっと優しくしなければ・・・。


そのために、私は意識的に一歩引けるようになりたいです。それはこの小説でも描かれていて、早く早く先を急いで歩く人たちは、リンさんのことを見向きもしません。困っていても、知らんぷり。リンさんは生まれてはじめて車に乗ったとき、故郷と比べて、こう思います。「(故郷では)ありがたい遅さのせいで、世間を、畑を、森を、川をとくと見ることができる。すれ違う人と言葉を交わし、声を聞き、近況を伝え合うこともできる。車は橋の上から投げられた箱のようだ。これでは何も捕まえられない」(一部略)と。このあたりは、現代文明に対する風刺です。


それだけに、リンさんのシンプルな言葉、シンプルな動機、シンプルな行動は、急ぎ足に慣れた大人たちに、新鮮な驚きを与えることでしょう。こうした純粋さはその分とっても力強くて、誰も邪魔することは出来ません。この境地には全てを失った後でしか達し得ないとするならば、「老後」もなかなか悪くないんじゃないかな、と感じました。その意味では、この本は子供向けなだけではなく、高齢者賛歌という側面もあるように思いました。

いつでも朝はある
いつでも朝日は戻ってくる
いつでも明日はある
いつかはおまえも母になる

どうしてこんなにたくさんのものから遠く離れなければならないのだろう?どうしてこの人生の終わりには、喪失と死と埋没しかないのだろう?

やっぱりあれは現実に存在するのかもしれない!ときとして生じる奇跡、黄金、笑い、そして、自分を取り巻くものすべてが破壊と沈黙でしかないと思えるときに、新たに湧きあがる希望!