アントニオ・タブッキ「インド夜想曲」

Antonio Tabucchi (1984) "Notturno indiano"

「彼の名前はシャヴィエルです。インドで失踪してしまったポルトガル人です」。写真はなく、あるいのは彼の思い出だけだ。そして思い出は僕だけのものだから、描写するわけにはいかなかった。彼は悲しい運命に生まれついていた。ふいに彼は叫んだ。「ここへなにをしに来た。どうしろと言うんだ」


インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)


人捜しというミステリーを軸にした旅行記ですが、不思議な魅力にのせて、読者をインド各地へいざないます。


ホテルを毎晩変える主人公が、各地で出会った人々と語らう夜。謎めいていて、哲学的で、空想力を高めてくれる会話の連続。

手紙をくれた売春婦 「悲しい運命に生まれついていたんです」・・・病院で出会った老人 「彼の生殖器は神に捧げられています」・・・船で同室となった紳士 「この肉体の中で、われわれはいったいなにをしてるのですか」・・・ホテルの部屋を訪ねてきた女 「あいつは金持すぎたのよ」・・・バスの停留所で出会った少年 「兄さんには過去も未来も見えるんです」・・・


失踪した友人シャヴィエルの足取りをたどって歩くのですが、どうやら主人公には友人を一刻も早く見つけようという意識はないようにも思え、先を急ぎたがり、結論を急ぐ論理的な読者を焦らせ、空転させます。そのものズバリの描写はないのに、平凡な日常感覚は早々に壊されてしまいます。合理的で贅沢な西洋人(現代日本人も)の常識では単純に割り切れないことに気づくと、いつしか、読者はインドの中に。


すえた汗の匂いがする夜の病院から豪奢なタージ・マハル・ホテルまで、巨大国家インドを表す全ての構成物が、すばらしい存在感をもって物語を支えています。
この国には世界標準の「格差」があるわけですが、それらをひとつひとつ追いかけても本質なんて掴めやしない。一旅行者に何かを変えることなんて、出来ません。出来ることは、触れるだけ。もっともっと大きく、全てを悠々と飲み込んでしまう大河のような巨大な存在、インドの奥深さが圧倒的で、インドそのものが主人公です。


次第に旅の目的も自分の場所もどうでもよくなり、まるで求めるために歩き、そのために読み、それが当然のことのように思え、延々と続く旅に、もっともっと読み続けたい感に浸れます。そして断片的な言葉の数々の指向性に気付いたとき、物語は・・・。
この感じは、今の私の好みでした。ただ、最終章は賛否両論でしょうか?結末というより、語り方が。私は、「弱い」と思いましたが。


そうそう、須賀敦子氏の訳はとてもよかったです。雰囲気描写が全てといえる、この小説世界を見事に表現しています。



追記 09/10/9
映画版を見ました。'89 モントリオール国際映画祭・審査員特別大賞などを受賞しています。「この映画は、日常的で、詩的で、神秘的なすばらしいインドを見せてくれる」(ル・フィガロ
いくつかのシーンが省略されており、さすがに小説よりは理解しやすくなっていました。けれども、難しい映画であることは間違いないです。それよりも感じたのは、映像による力です。ホームレスの海など、圧倒的です。

インドで失踪する人はたくさんいます。インドはそのためにあるような国です。

「たとえば、作品のひとつは、あるところに旅をしたいと一生思いつづけた男の話で、ある日、ついに実現のめどがついた。すると、彼はそんな旅なんか、ぜんぜんする気が自分にはないことに気づく、といったような」
「それでも、その人は旅に出たんでしょう」医者は言った。
「そのようです、結果的にはね」