アンドレイ・クルコフ「ペンギンの憂鬱」

Andrey Kurkov (1996) "Death and the Penguin"

ウクライナの首都キエフ。売れない小説家のヴィクトルは、編集長から依頼されて、生前に書いておく死亡記事<十字架>を書いている。ヴィクトルの心の友は、動物園から引き取ったペンギンのミーシャである。憂鬱症で心臓が悪いが、冷凍魚を喜んで食べ、ペタペタ後を追ってくる。ある日、<十字架>に書いた人間が実際に死に、ヴィクトルの周囲にもおかしなことが起こり始める。それとともに「家族」が増えていくが、しかし、ヴィクトルは孤独だった。


ペンギンの憂鬱 (新潮クレスト・ブックス)

ペンギンの憂鬱 (新潮クレスト・ブックス)


スポーツ界に多くの有名選手を排出しているが、ウクライナは多くの日本人にとって、遠くて遠い国だと思う。しかし、この本に登場する者たちの感触が総じて良く、きっと身近に感じられる。
小説のテーマは「都会人の孤独」といったところだが、ペンギンのミーシャの存在が、無力感を感じさせる物悲しい小説に、ペーソスという洒落た味をつけてくれた。また、巨大権力に立ち向かうことを是とするのではなく、事態を渋々受け入れてしまう主人公の立ち居振る舞いは、日本人にあっている。

作者は、ウクライナのロシア語作家。本著はヨーロッパを中心に、約20カ国語に翻訳された国際的ベストセラー。キエフ在住。


憂鬱症のペンギンと暮らすというユニークな設定。そして、平和主義者がいつのまにか犯罪組織に関わってしまうという、巻き込まれ型ミステリ調の展開(緻密な推理を要求するものではないので、考えすぎる必要はありません)。
その面白さでさくさくと読み進むが、次第に物語のスピードは緩やかになり、すると主人公の性格と対人関係に目が向かう。


町を歩く3人の男女。小さな子供をまんなかにして、両側には子供の手を片方ずつ握った男と女。楽しげに語らっているが、しかし、彼らは血のつながった家族ではない。少なくとも父親役のヴィクトルは、彼らに何の感情も抱いてはいない。しいて言えば、義務感があるだけであり、これは「家族ごっこ」であると認識している。・・・と、いったヴィクトルの『不運な』生活と孤独を好む性格とが、いろいろな出来事をきっかけとして変わるのか、変わないのか、という話でもある(ちなみに『不運な』にあえて『』をつけた理由は、読んだ人なら分かるはずです。逆算したら、そういうことですよね)。


ヴィクトルはどんな異常事態が起こっても、基本的に一晩ぐっすり眠るとたいてい忘れてしまう。はじめ読者はこのことに面食らうが、次第に慣れて、ペンギンのように寄り添っていくだろう。読者もヴィクトルごと作品世界を受け入れて、この都市では何が起こっても不思議ではないということを知る。

この何が起こっても・・・という舞台は、「ソ連が崩壊してウクライナが独立した直後の、犯罪が横行しマフィアの暗躍する「過渡期」の都市キエフ」(訳者あとがきより)である。銃撃音で目を覚ましても、あくびをしてコーヒーを飲む。地雷を踏み爆死した男を見て一言、「なあんだ」・・・。社会と関わると、特に利権が絡む業界に関わると、必ずと言っていいほど背後にはマフィアがいて、彼らとの関係を余儀なくされる。そんな国、そんな状況を想像すればいいのだろう(ソ連崩壊は91年、この本が書かれたのは96年。今のウクライナは違うと思うけど、たぶん・・・)。


日本人からすれば、あまりにも遠い。でも、ここにはヴィクトルがいる。ペンギンがいる。
「はるか遠い国の話のようだが、読んだ印象は正反対である。(略)どんなに不可思議であろうとも、私たちの隣人のように思えてならない」(井伊直行)

うん、私もそう感じた。それは、たぶん、ヴィクトルが決してヒーローではないからだと思う。
彼はマフィアにおびえる、普通の小市民である。だから、戦うことなど考えられないし、拒否することも、逃げることも出来ない。小さなきっかけから深みにハマってしまい、悪い予感はガンガンするが、どうしても抜けられないことを知ると、仕方なく受け入れて、その環境下で仕事を懸命にこなすことで、自分自身を納得させようとする。(マフィアはともかくとして)これって現実的だと思う。誰にでも起こりえると思う。


本作はペンギンのかわいらしさがたっぷり詰まっているが、その鏡である主人公・ヴィクトルも大変魅力ある人物だ。


・ヴィクトルは心配性である。ただ、翌日には受け入れているので、心配すること自体が特質なのかもしれない。この世界は心配する憂鬱な人間と、それ以外の人々に分けられている。

・ヴィクトルに親友はいない。他人から少し親切にされると、それでその人間のすべてを信頼し、一足とびに親しい存在に感じるというのは、友人が少ない人間の心理である。


周りの人間は自分に強制的に何かをやらせようとするし、また、自律的に存在している。自分に何も強制せず、それでいて自分を必要としている存在、唯一の理解者がペンギンのミーシャである。ヴィクトルは、穏やかで、抑圧されない生活が好きなのだ。

しかし、それに気づく人はいない。周囲は(マフィアも「家族」も)今の生活が続くことに何の疑問も感じていないが、ヴィクトルの心だけはどんどん離れていく。現在に嫌気がさし、ペンギンとともに静かな生活をしていた頃に郷愁を感じ、過去を居心地よく感じることになる(ex.ペンギン学者の部屋)。そして、とうとう口に出す。

「この人生、なんだかしっくりこない」

要するにこの世界は、自分の存在を主張する人間ばかりで、ヴィクトルとペンギンが、他人にぶつからず、静かに歩くのは難しいのだ。そして、外見的にはうまくいっているように見えても、人間たちの関係なんて薄っぺらいものだという真実。

これはヴィクトルとミーシャが住む、小説世界のことだけじゃなくて、実際の世界もそうだろう。このあたりに大いに共感した。特に、一人の時間が多い仕事をしている人は、そう感じるのではないかと思う。


で、その状況を変えるためには、環境をガラッと変えるのが一番いいのだが・・・どういうふうになるかは読んでのお楽しみ。そして最後には、名セリフが待っている。あれにニヤリとしない読書家はいないと断言したい!


なお、沼野恭子氏による訳者あとがきは、本編を補う形であり、とても良かった。本作について(上述の観点からだと思うが)欧米では「きわめて社会性の高い風刺」とか「ポスト共産主義時代の悲喜劇」と政治と絡めて評されているが、そんなことを考えなくても文句なしに楽しむことのできる、お洒落な上質のエンターテイメントだと書いている(ただ、会話文と頭のなかの考えが、ともに「」なのは読みにかった・・・)。また、原題は「局外者の死」だそうだが、邦題「ペンギンの憂鬱」の方がずっといい。


しかし、ヴィクトルについて、全く別の見方も出来るようだ。それは彼を自分勝手な男!とするものだ。これは私がこの話の筋を話した人から返ってきた最初の反応である(説明が下手だというのもあるが)。もたれあって生きている中、突然片方だけが外れたら、もう片方はどうなるの?、と。これは「人間も動物も、一人では生きていけない」とする協調性に長けた立場からの、至極まっとうな意見だと思う。
一方、ここでのヴィクトルは「たしかにペンギンは一人では生きていけない。しかし人間は、本当に仲のいい、自分と完全に合う人がいないならば、一人で生きていくのも悪くない。何が何でも誰かと一緒に過ごす必要はない」という立場であり、これも至極まっとうだということは、実際にこの本を読めば分かると思う。そして、それが、あのラストのヌーベルバーグ的な名シーンに繋がる。
ただ、ペンギンのミーシャのことはある。それはたぶん、続編で書かれているのだろう。「カタツムリの法則」という続編の翻訳が待ち遠しい。(wikipediaによれば、マフィアのボスの選挙運動を手伝う仕事、ミーシャとの再会、さらに旧ソビエトに行ったりするそうで)



以下、小説から分かったキエフのこと。

・クリスマスプレゼントは、新年に贈るらしい。
・プレフェランス ... トランプ遊びの一種。「カラマーゾフの兄弟」にも登場していたと思う。あのあたりの独特のものですかね?
・シャシルィク ... Шашлык。キャンプ時の定番メニューらしい。バーベキューですな。 
ザポロージェツ ... Zaporozhets。車。
・水の公園 ... Hydropark。物語の重要な舞台となる場所。