カーレド・ホッセイニ「カイト・ランナー」

Khaled Hosseini (2003) "The Kite Runner"

「怪物なんていないよ」50ダースの色とりどりの凧が真っ青な空にあがり、上空を滑空したり旋回したりしている。子供たちは歓声をあげ、路地ではカイト・ランナーたちが敗者の凧をめがけて走っていく。依然としてわたしの凧は含まれていて、希望が少しずつ膨らんでいった。父がぼくを見てくれている。ぼくのことを認めてくれるかもしれない。そしてもしかすると、母を殺したことも許してくれるかもしれない。しかし、この年はハッサンが凧を追った最後の年となり、私が今の私になった年でもあった。


カイト・ランナー

カイト・ランナー

  • 作者: カーレドホッセイニ,Khaled Hosseini,佐藤耕士
  • 出版社/メーカー: アーティストハウスパブリッシャーズ
  • 発売日: 2006/03
  • メディア: 単行本
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求めれば去られ、求められれば突き落とし・・・という少年期のトラウマ体験を抱えたまま、大人になった主人公。過去に向き合い克服するチャンスを得ますが、そこにはあのグループが。

現在も続くアフガニスタン人の悲しみの大きさ、喪失感、絶望の深さを多くの人に知って欲しい・・・作者はそうした思いを実現するため、国家の問題を人間関係の諸問題(愛情と憎しみ、信頼と恐怖からの裏切り etc.)にうまく落とし込んだように思います。その結果、幅広い読者層へ向けられた感動作になっています。

コントラストが際立つストーリー展開の巧みさ、平易な文章に乗せて貫かれたトーンの切なさ、そして善意にあふれた全体的な優しさが魅力です。また、主人公の性格と文体との整合性は見事です。


物語は1975年頃のアフガニスタン、首都カブール。少年たちは年代相応の葛藤を抱えながらも穏やかに暮らしていました。
裕福な家庭に育った少年アミールは、従者の息子ハッサンとともに育ち、ともに遊びながらも、一度として彼を対等な友人と感じたことはありません。親分子分の関係です。さらにアミールは父親との関係がまったく上手くいっていなかった。成功した父親は「力」のある成功者しか認めないのです。そのため少年は父の愛情を手に入れるために必死の努力を行いますが、これはまた彼の自尊心や嫉妬を高める作用を果たしてしまい、すべての負のエネルギーはハッサンの方へと向かいます。ハッサンは強くて純粋で、まさに父親好みなので。

そして起こった、トラウマとなる事件。さらに祖国の破壊。

日本的にたとえるなら・・・親友がイジメられているのを見てみぬふりし、それどころか加担してしまい、その後、親友は転校していってしまった、という感じです。(ネタバレ防止のため、内容そのままではありませんが)

ストーリーには盛り上がる個所もふんだんに用意されているのですが、それらにある意味冷や水を浴びせるのは、主人公の絶望的なまでの懺悔の気持ち。自分に向き合わず、逃げて、逃げてきた今。そこにかかってきた一本の電話・・・「来るんだ。もう一度やり直す道がある」。


強さとは何か。弱さとは何か。

この本からは「強さとは、自分の弱さと正面から向き合うことである」と読み取れます(弱さはその反対)。でも、それはなかなか出来るもんじゃない。
過去を隠しながら前に進むのか、後退の覚悟を以て過去と向き合い膿を出すか。ヒーローへの道は後者の先にありますが、実際は先立つものがなければ難しいように思います。最初の段階なら戻ることは簡単なのでしょうが、時が経てば経つほど難しい。恥の上塗りとはよく言ったものです。
その意味でこの主人公は大したものですが、でも、それだけじゃないでしょう。過去をなくしてしまった分、他の場所へ数百倍還元することでなんとかなりませんか―――と、そういう生き方もあるんじゃないかなと思っています。


さて、外国小説の楽しみは物語のみならず。いながらにして、その国の文化に触れることが出来るのも魅力です。
アフガニスタンにも凧上げがありました。コタツもあるんですね(コルシと呼ばれているそうです)。イスラムの文化では緑色は夏ではなく、春の色だとか。そして多くの人が知りたいであろう、タリバンの様子も描かれています。おまけ(?)として、生活保護を受けているのに一軒家に住めちゃうというアメリカの生活も分かります。その他にも、あれやこれや・・・。


なお、本作は邦題 「君のためなら千回でも」として映画化されています(実は映画が面白かったために原作を読んだというパターンでした。文庫版も今は「君のため〜」に改題されているようです)。
映画版では、小説の最後に起きる大事件がざっくりとカットされていましたね。小説では「子供」の気持ちのレベルに「大人」があわせていこうとする課程の困難さが、困難であればあるほど・・・という法則から素晴らしいラストを作り上げるのですが、映画版ではそれがないため「子供」の気持ちがやや分かりにくい。その分「大人」の気持ちが強く出るようになっていたと思います。


印象深かったのは、十歳くらいの子供が言った「昔に戻りたい、前の生活をしたいよ」という言葉。また、目ではなく、匂いで過去との繋がりを見出そうとするところ。そして、ザクロの実を投げつけるところでした(ここは映画版でも名シーン)。


作者のカーレド・ホッセイニは、政治難民としてアフガニスタンからアメリカに移住したアフガニスタン人の医師。これは作家としての処女作であり、NYタイムズのベストセラーリストに64週もランクインしました。

主な読者であるアメリカ人は9・11を経て、アフガンを「敵国」視しています。本作ではアフガンの一般の国民生活はタリバンとは違うという当たり前のことが(主張することなく)淡々と描かれていますし、また、アフガン人もアメリカ人と同様の喪失感を抱いていることが分かるなど、アメリカで発生したであろう在米アフガン人差別解消にもいくらか貢献したのではないかと推察します。自分の内面的な弱さを克服しようとする展開も、アメリカ人好みでしょう。
一方、この小説の日本人に対するアピールは、アメリカ人と比べるとちょっと弱いように思います。日本における国際テロの脅威が(まだ被害がないため)直接的ではないことと、少数民族についての人種問題が日本の国家的問題ではないことが理由です。価値観の共有という点で、アメリカ・アフガンラインには及びえません。ただその分、日本人はこの作品のストーリー自体の素晴らしさに目を向けることが出来ます。この小説を褒める日本人のほとんどは、ストーリーそのものに対するものだと思います。


ちなみにこの作品全体を隅から隅まで覆っている「がっかり感」は、日本でいえば戦後作品群に見られるものだと思います。中でも太宰治の作品に近いように感じました。しかし、太宰作品より主人公の性格がとっても地味です。そのため感情移入の度合いは低くなるのですが、その分、全ての登場人物を公平に見て、相手の気持ちに立って思考出来るように設定されていると感じました。

嘘をつくのは、だれかの真実を知る権利を盗むことだ。

私たちアフガニスタン人は憂鬱な国民だ。悲観や自己憐憫の泥沼でのたうちまわってばかりいる。喪失や苦しみに屈指、人生の事実として受け入れ、必要なものとさえみなしている。それでも人生は進むといってな。

けれども、ソラヤの過去を気にしない一番大きな理由は、わたし自身が過去を持っていることだ。過去を悔いることについては、わたしはだれよりも知っていた。

奇妙なことに、わたしの真実の姿を知る人がいてくれるのが、わたしにはうれしかった。もう自分を装うことに疲れていたからだ。

黄色い凧は空高く舞いあがり、振り子のように左右に揺れながら、あの懐かしい、紙で作った鳥の羽ばたきのような音を立てている。この音を聞くたび、決まってカブールの寒い冬を思い出す。